2011年 06月 22日
川端康成 「反橋」を再読して
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何を思い立ってかさえ忘れてしまったが、昨夜、やわらいできた雨音を聞きながら、川端康成の「反橋」を45年ぶりに読み返しました。
-あなたはどこにおいでなのでせうかー
の言葉で始まるこの短編は、「しぐれ」、「住吉」と戦後間もない三部作短編といわれています。
十七歳のころ初めてこの短編に接して、高校生ながら、非常に深く引きつけられたものです。
そして大学の卒論は川端さんにしました。
この人の一般には諦念といわれるようなもの、死がすぐそばにある清冽さに惹かれたからでもありました。 殊に言葉の美しさは若い僕の重々しい不条理をかかえての学生時代を支え続けてくれたともいえます。
はっきりとは覚えていませんが、川端さんは東京裁判を傍聴して、自分はもう日本の哀しみに帰ってゆくばかりである、というようなことを書かれています。
そして昨夜の短い「反橋」は、学生時代に感じたより、よりいっそう身近に迫ってきました。
僕の哀しみもさらに深まりつつ、うとうとしながら朝を迎えてしまいました。 夜気の中の雨音がずっと語りかけてきているような、そんな夢につつまれて。
そして、この厚い全集本の中の一巻の中に細いけれど濃い色の鉛筆で「 」で結ばれている箇所が、やはり今回も気になったのでした。
そしていまの僕も益々こういう形でしか、ささくれた現実とは結ばれていないということであります。
美術品、ことに古美術を見てをりますと、これを見てゐる時の自分だけがこの生につながつてゐるやうな思ひがいたします。 さうでない時の自分は汚辱と悪逆と傷枯の生涯の果て、死のなかから 微かに死にさからつてゐたに過ぎなかつたやうな思ひもいたします。
美術品では古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言ふまでもないことでありまして、私は古いものを見るたびに人間が過去へ失つて来た多くのもの、現在は失はれてゐる多くのものを知るのでありますが、それを見てゐるあひだは過去へ失つた人間の生命がよみがへつて自分のうちに流れるやうな思ひもいたします。 もつともやぶれおとろへた私の心ではかねてから過去と現在と未来との差別がはつきりしないのでありますけれども、これはまた別の話でありませう。
川端康成「反橋」より
アンティークギャラリー坐韻 店主
www.gallery-sein.com
-あなたはどこにおいでなのでせうかー
の言葉で始まるこの短編は、「しぐれ」、「住吉」と戦後間もない三部作短編といわれています。
十七歳のころ初めてこの短編に接して、高校生ながら、非常に深く引きつけられたものです。
そして大学の卒論は川端さんにしました。
この人の一般には諦念といわれるようなもの、死がすぐそばにある清冽さに惹かれたからでもありました。 殊に言葉の美しさは若い僕の重々しい不条理をかかえての学生時代を支え続けてくれたともいえます。
はっきりとは覚えていませんが、川端さんは東京裁判を傍聴して、自分はもう日本の哀しみに帰ってゆくばかりである、というようなことを書かれています。
そして昨夜の短い「反橋」は、学生時代に感じたより、よりいっそう身近に迫ってきました。
僕の哀しみもさらに深まりつつ、うとうとしながら朝を迎えてしまいました。 夜気の中の雨音がずっと語りかけてきているような、そんな夢につつまれて。
そして、この厚い全集本の中の一巻の中に細いけれど濃い色の鉛筆で「 」で結ばれている箇所が、やはり今回も気になったのでした。
そしていまの僕も益々こういう形でしか、ささくれた現実とは結ばれていないということであります。
美術品、ことに古美術を見てをりますと、これを見てゐる時の自分だけがこの生につながつてゐるやうな思ひがいたします。 さうでない時の自分は汚辱と悪逆と傷枯の生涯の果て、死のなかから 微かに死にさからつてゐたに過ぎなかつたやうな思ひもいたします。
美術品では古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言ふまでもないことでありまして、私は古いものを見るたびに人間が過去へ失つて来た多くのもの、現在は失はれてゐる多くのものを知るのでありますが、それを見てゐるあひだは過去へ失つた人間の生命がよみがへつて自分のうちに流れるやうな思ひもいたします。 もつともやぶれおとろへた私の心ではかねてから過去と現在と未来との差別がはつきりしないのでありますけれども、これはまた別の話でありませう。
川端康成「反橋」より
アンティークギャラリー坐韻 店主
www.gallery-sein.com
by seinhaus
| 2011-06-22 21:50
| 文学