2014年 11月 02日
「泣いているきみ」
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今までの人生の中で最初で恐らく最大であろう岐路に立って、大きな不安の状況にいる息子に、父親として解放を与える言葉は一つもないのだという実感にさいなまれている。
人は人によって救われ、解放され、新たな道を歩き始めるはずなのだとばかり思ってきたが、20歳を過ぎた息子にできることは、ほとんどゼロに近いのだと確信されつつある。 人は自ら立ち上るほか目の前の道を歩けやしない。
こんな空気の中でもう一篇、「自選 谷川俊太郎詩集」の中の『私』に収められている「泣いているきみ 少年9」を引用させてもらいます。
泣いているのは僕なのかもしれない・・・。
「泣いているきみ 少年9」 谷川俊太郎
泣いているきみのとなりに座って
ぼくはきみの胸の中の草原を想う
ぼくが行ったことのないそこで
きみは広い広い空にむかって歌っている
泣いているきみが好きだ
笑っているきみと同じくらい
哀しみはいつもどこにでもあって
それはいつか必ず歓びへと溶けていく
泣いているわけをぼくは訊ねない
たとえそれがぼくのせいだとしても
いまきみはぼくの手のとどかないところで
世界に抱きしめられている
きみの涙のひとしずくのうちに
あらゆる時代のあらゆる人々がいて
ぼくは彼らにむかって言うだろう
泣いているきみが好きだと
フランス サン・ルイ 金彩花器 1890年頃
アンティークギャラリー坐韻 店主
by seinhaus
| 2014-11-02 20:40
| 文学